お題箱の返事10

2019年04月02日

◆おんねこさん、こんにちは。公開して下さっていた南極立海を拝見しました。の方へ!

とても熱意のこもったお便りをくださってありがとうございます。

乗り換えの空港で、おことばの端々にみえる深いご洞察にうち震えながら拝読しました。スクショも撮って、飛行機の中でも読みました。お便りにめためたに突き動かされたので、情動のまま以下を書きます。


私も同じです。越前リョーマってなんだよ!って、非常にどす黒い気持ちで思い続けてきました。(なんであの幸村を勝たせてあげないんだ、とも思いました)

あなたの気持ちと、多分同じなんです。でもテニプリが好きで、越前を理解してみたかった。胸を張ってテニス好きですって言いたかった。それもきっと同じなんじゃないかと邪推します(勝手にごめんなさい)。

私はテニプリが好きになってからとても歴史が浅くて、ハマった頃にはすでに、柳蓮二を理解するためのたくさんの材料が揃っていました。連載当時のハラハラを体験できないもどかしさはありつつも、きっと冷静になりやすかったんです。特に新テニの同士討ちや、白石とのやり取りはすごく大きな要素でした。同時に、乾貞治という人間のことを考える時間もありました。

経緯は色々ありつつも、柳蓮二にとって「遺す」とはどういうことか、切原にとって「追う」とはどういうことかを考えていくさなかで、アムンゼン・スコット両南極探検隊の話に出会えたのは本当に幸運でした。

スコットは最後、アムンゼン隊のソリ跡を見ながら南極点を目指して進んでいたといいます。南極は非常に乾燥していて雪など降らず、ソリの跡もくっきりとしていたことでしょう。悔しいとか、恨めしいとか、そういうこともあるけれど、それでも同じ道を歩いた人がいることの意義を、南極の逸話は教えてくれました。多分スコットがいなければ、私は今でも越前を恨み続けていると思います。


スコット隊には、本当にテントから出ていって、最後まで戻らなかった隊員がいます。遺体も見つけられなかったそうです。(実質的には強風によって探索不能の山谷まで飛ばされてしまったのでしょう)

今回の柳のモデルなのですが、そういう達観、または欠けがあると、そこにだけ引き寄せられる一定の人間がいて、好奇心と探究心によって新たなピースや架橋点が見つけられていくのだと思います。「負けた事実」もきっと同じで、おっしゃるとおり、負けは負けのままずっと横たわっているのではなくて、そこから先の世界も拓けていく。私自身が言葉にできていなかったところを汲んでくださり、さらにこうして伝えていただき、本当にありがとうございます。

柳蓮二は私にとって、人との間に核心をつかめる距離を保ちながら、相手の一番良い道を示しうる光です。人との間に生きる人間であることを、ひしひしと感じます。新テニがさらにすすんで、彼の生き様が見られることを願ってやみません。


長い間ツイッターでお付き合いくださっていたのですね。こちらこそ、本当にお世話になりました。そんな昔から……! 様々な幼さ拙さで不愉快な思いをさせたことがあったと存じます。そんななかで途切れずお付き合いをくださって、ありがとうございました。

といっても!お付き合いが終わるわけではないかな~と勝手に思っております!!またどうぞ別の媒体でもよろしくおねがいします!!












ついブログの方を先に読んでしまっておんねこさんの考察と設定の緻密さに感嘆し、行きつ戻りつ時間をかけて読み進めました。

私もずっと全国大会(どころか関東大会すらも)を引きずっていて、青学が、もっとはっきりいうと越前が嫌いでしかたありませんでした。他のテニプリキャラに比べて彼の言動に共感できるところがなく、理解が及ばなかったせいもあります。
しかしおんねこさんの「青学の相手であった立海は、たったふたりきり、たった2校きりの決勝戦という大切な空間を共有した戦友であったのだと。」という一言、そして作中の「一番の人がたどった道のりの苦しさや楽しさを一緒に歩むのがその対戦相手なんだと思う」という一文でテニスの王子様を好きになって以来の15年の呪いがほどけていくのを感じました。
確かにそうだ、あのコートに立っていたのは一人ではないのに。対立する存在のうちの片方の背中側から、私はあまり狭く偏った見方をしていたのではないだろうか。まさに目から鱗が落ちるような思いで、何度もおんねこさんの文章を読み返し、モニタの前を離れても思い出しては涙がこぼれそうになりました。
私にとってひたすら先輩を追う者であった切原の存在、三強とはかなりかけ離れた立ち位置への不安感に、今まで思いつくこともできなかった解答を頂いたような心持ちでいます。
圧倒的な存在であった幸村が去り、レギュラー外の部員でもテニスをやめない程度にはフォローしてやっていたであろう真田も柳もいない中では切原は立海を率いていくことができないだろうと思いこんでいました。しかし替えの効かない喪失でももたらす成長があることに思い至り、初めてにしてようやく明るい道筋が見えた次第です。
(文字数制限のため一旦切ります)

(続きです)
作中南極の地に横たわり、待ち望んでいた音を聴いた柳と自分を再確認する音を聴く切原の、並んでいながら死と生がはっきり分かたれた一場面は言葉にしがたいほど強く胸を打つものでした。恐らく抑揚のない落ち着いた声で語られている柳の言葉が、冷たく光る雪原に吸い込まれていく様子を想像すると大層寂しく、悲しくもありながらある種の希望も体現しているかのように思えます。60年という時間の隔たりをゼロにし、永遠に消えない一つの壁を作り出しもした氷雪の世界。真夏のあの大会は多くの学校の先輩・後輩にとってそうだったことでしょう。殊更立海の子たちはその要素が強いように思います。日吉も海堂も財前も、先達とは違う道をすでに歩いていた。切原だって追い続けた背中を超えるために同様の在り方を目指す必要はないし、彼なりの方法で達成できる可能性は十分にあるということは南極立海によって私の中に生まれた新しい認識です。
この作品を通してあまりにたくさんのことに気づかせて下さり、本当に感謝してもしきれないほどです。
別の話になりますが、ツイッターのアカウントを消されるそうで、TLが寂しくなるなあと思います。フォローさせて頂いたきっかけは柳蓮二×民族衣装の企画でした。おんねこさんの描かれた一枚は静謐に満ち、美しさと清らかさを併せ持ち、柳からは品のある艶やかさが滲み出ていてとても印象的だったのを覚えています。
ここ数年めっきりテニプリの話題が減った私とも時折お話して下さったこと、楽しい思い出の一つです。ずっと相互でいて下さり、本当にありがとうございました。
おんねこさんがこれからもあらゆるジャンルで楽しく創作活動ができますよう、祈っております。長々と失礼しました。

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