博士と教授の80日間中国旅行
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この春の旅行で、このワンコイングランデの柳蓮二(通称長兄)がなくなったんです。
ミャンマーのバガンという街でしたが、くやしさやかなしみよりも納得のほうがつよくて、よりはっきりと景色の中に柳蓮二を見るようになりました。
そんな彼のすがたのうち、かすかなものもはっきりしたものも全部合わせて
見えたものすべてを描いたのが今回の本です。
「長兄」といっしょに行った場所もあります。
柳蓮二を知る前に私が行って、空想の中で柳蓮二が行っていた場所もあります。
描ききれなくてはずした土地もいくつかあって......でもその空白含めてのこの都市になりました。
博士と教授については、ふたりの日々への傾倒があまりに強くて
なにかひとつを切り取ることは難しいです。
掛け合いのときの馴れや、おたがいの甘やかし方、険しい「進入禁止」部分...
「琴線」どころか、楽器の開発段階にお互い大きな現実と空想をかかえた博士と教授になにかきまりきった関係の名前をつけるのは難しい、という話。
それは、わかれるということばもです。
ことばは名前であり、きりとりです。
わかれることは、わかれることでしょうか?
「別れは次へのステップ」みたいなキレイな話じゃなくて、
わかれも、さようならも、さようならでしょうか????
私にはそれがひとつにも思えない。ことこのふたりについては、終わるものがあるとは思えない。
いきなり話が飛ぶようですが、
「旅は非日常か?」という命題を、ここ三年ほど個人的に悩み続けてきました。
家を観光地の近くに構えたのがきっかけで、いままでの特別なモノが全部手に届く範囲に転がっているとき、なにか、すごく焦ったんです。毎日がパーティーというか、日常と非日常がごちゃごちゃして。
そこから考えてきた、「旅は非日常か?」という命題を、私は最近解決(自分で納得ってことです)しました。
旅は日常の一部である。自己の生活であり、他者の生活であり、その混ざる場でもある。
彼らにとっての試合も、きっとかくあるものだと感じました。
練習と試合に、日常と非日常の境目などない。
同時に、当時なんでもなかったことがあとになってキラキラと輝く秘宝になることの理由も、納得がいきました。
見えているものはすべて地続きである。
そしてたぶん、見えるものと見えないものの境目もない。
おわかれと、わかれていないときの境目もない。だんだん遠くが見えるようになった気がします。
****フォトアルバム追加と記事追加は8/31ごろ