立海九相図

2019年04月06日

ごく個人的な話しか、この記事の中ではいたしません。


ツイッターという場所から自分が離れ難かった理由はいくつかあるのだけれど、いちばんの大きな理由は、そこで生まれる「好き」だけを原動力にした世界の広がりが、ときに凄まじく奇跡的であることを知っていたからでした。

立海九相図は、ツイッターでの呼びかけに応じてくださった方と一緒に作っていった、立海に対する誠意である。と、私は認識しています。


もともと、松井冬子女史の作品をきっかけにして、九相図のことを知っていました。

それは単なるグロテスクな表現ではなく、人間の内面をやむなく吐露する死体と、それによって同じように内面を吐露するしかなくなってしまう観察者との、肉感迫るコミュニケーションの可能性を示すものでした。少なくとも私にとってはそう写ったし、死体による無言の発話は、私が幼い頃から深い共感を感じ続けたヒロシマのひばくしゃから受け取る静謐な強迫と、とても近いと思いました。静謐な強迫、というと鋭く重いもののように思えるかもしれませんが、もっと実感的に、誰かと背中合わせに座ってお互いに体重をかけるときに感じるあたたかみや張力のような、そういうたぐいのものです。


その前提のもと。


私はどうしてもテニスの王子様たちが生きていることを証明しなくてはならないと思っていました。私はテニプリにハマりたてで、すでに十幾年のながきにわたって原作とそれを囲むたくさんの創作や考察がうずまくさまに圧倒され、途方に暮れていました。どうにかして、自分が納得する自分のやり方で、テニスの王子様たちの、立海の、いやもっといえば柳蓮二の、生きている核心を確実に掴まなければならないという衝動に追い詰められていました。

生きていることを証明するにはどうすればよいか。

死んでいないことを証明すればいいのである。

死んでいないことを証明するにはどうしたらよいか。

許斐先生は「誰も歩いていない道」を歩くお方である。ならば、ぽっと出のファンの私が歩いた道は先生の歩いていない道である。私が彼らの死を描けば、テニスの王子様たちは絶対に生きていると証明できるのではないか。死に様が真に迫れば迫るほど、私は彼らの生を確実にできるのではないか。


九相図への感覚と、テニスの王子様への衝動とが交わったところに、立海九相図の原型はありました。けれど私は当時絵をかき始めたばかりで、同人誌を自力で出す力も経験もなく、ただ、それが形になったらどれだけ救われるだろうと夢想ばかりしていました。

そんなころ、ツイッターで話をするようになり、頻繁にお会いするようになったのがおたまさんとぽるかさんです。その後現在に至るまで、いろいろな企画をご一緒し、たのしい時間をいっぱい共有させてくださいました。おふたりと会って、3人で合同誌(立海×豊饒の海パロディ)を作り、その打ち上げの会場で、立海の九相図が作りたいという話をしました。3人だけででもいい、でももしかしたら輪が広がるかもしれないから、ツイッターで呼びかけてみよう。そんな話におふたりが乗ってくださり、ツイッターで告知をしました。すると、何名かの方からかなりすぐに、反応をいただきました。その方々が、「立海九相図」の執筆者さまたちです。


ツイッターの使い方や、対面ではないメディアの扱いに疎く、精神的に鍛錬の未熟な私は、そのとき少なくないミスを犯し、多くの不興を招くことにもなりました。その節に不愉快な思いをさせてしまった皆様、本当に申し訳ありませんでした。

それでも脳みそは自分勝手なので、発行までに執筆者の方々とかわした言葉や時間の豊かさが、いちばんきらきらと思い出されます。

チャット会議をしたこと。死体の写真を持ち寄ったこと。豚肉を炎天下で放置したこと。配慮するべき点を優しく諭してくださった方。鬼気迫る作品を締切のはるか前にお預けくださった方。何度も、良い原稿にするために試行錯誤してくださった方。あみだくじで表紙の担当を決めたこと。全相にわたり作品がゆきわたるよう相談したこと。遺体を描くのが苦しいと吐露したツイート。すべてをお尽くしになった原稿の一枚一枚、それを本にするための作業と、アドバイスと、お助けと……

それをつないでくれていたのはやっぱりツイッターだったし、向き合わねばならない王子様の遺体に、目を背けないでいられたり、また背けたいときに背けさせてくれたのも、ツイッターであったと思います。少なくとも私にとってはそうで、この画面のどこか先で、執筆者の方が励まれていると思うと、高揚感とともに安心感もありました。ツイッターを通して、誰かと一緒にいると感じることが楽しかった。


遺体に向き合いそれを描くことはとてもつらかったです。

私は「つらい」を本来の意味で使うのがとても嫌いなのですが、それでもやっぱりあのときはつらかった。描きなれない絵を描くこともですが、あんなに美しく気高い王子様たちが、まるで非・王子様と同じように腐敗していくことと、それをまむかいに切り取らなければならないことがとてもつらかった。

同人誌を作ることそれ自体はなにもかも新鮮で…というより心強すぎる先輩方が執筆陣であり、おたまさんもぽるかさんも処世術をよどみなくご教示くださったおかげで、何もつらくありませんでした。めくるめく楽しみばかりでした。あんなに楽しかったから、いまでも同人誌を作り続けているのだと思います。


最初にかきたかったのは、柳蓮二の肩に雪が降り積もっている情景でした。

本を読む柳蓮二の肩に雪が降り積もっている。そんなに長い時間、ずっと同じ場所で本を読んでいる柳蓮二を、切原赤也が遠くから見ている。でもそれは雪ではなく、耳から落ちる蛆虫なのです。そしていまは冬ではなく夏で、柳蓮二は内面から深く腐敗しているのです。

それを絶対に描きたかった。描きました。

原風景にヒロシマの夏があることはいうまでもありません。私自身も、何度耳から落ちる蛆虫の衝撃で悪夢から目覚めたかわからないほど、狂おしい親近感のある情景です。

松井冬子女史の作品にも、まるで初雪が積もった朝のような、九相図の作品があります。並列して話すのもおこがましいですが、そんなゆめのような情景を柳蓮二も内包していてほしいと強く願いました。


次に描きたかったのは、遺体を食べる柳蓮二です。これは難題でした。いかに好奇心豊かな柳蓮二であっても、遺体を口にするだろうか。する、という確信だけがありました。そういう相談に乗ってくださるのはいつもおたまさんで、おたまさんは、「しゃべりたいから食べる」とお答えくださった。いまでもこの答えは私の真理です。真田弦一郎とちゃんとおしゃべりがしたいから、柳蓮二は食べます。当時の私にとっては、幸村と真田、そうして柳、という二等辺三角形的な三強のありようが関心事だったのです。


自分の描きたいものを描き、かきむしられ、当事者以外のだれもが意図を理解し得ないなにかに身を委ねるのは楽しかった。すごく恵まれていました。誤解も多かったし、私の説明・能力不足は甚だしかったけれど、それでもやはり、楽しかったという心だけがいまも胸を占めています。この世の贅沢の限りが、この一冊でした。

私にとっては、「涅槃から解脱」で発行したはじめての同人誌です。

というより、これが私のはじめての同人誌でした。原発的な、到達でした。


ノベルティも好き勝手していまして、このときは清め塩でしたね。職業柄僧職につてがあるので、通販で購入して配布いたしました。ご愁傷様でした、といいながら頒布するの、私はそのやりとりで精一杯でしたが、いま思うとお隣近所のサークルさんは………。この後「続・立海九相図」も発行するのですけれど、そのときのノベルティはお祓いの札(僧職が文字を書いてくださいました)とお線香でした。香典袋で本のお代やお手紙などをくださる素敵な趣向を受け取り、人生でいちばんの高揚を覚えたこともいまだあざやかに思い出せます。


なにもかもをつないでくれたツイッターと、その向こうにいる実存のすべてに感謝しています。どうもありがとうございました。


当時のサンプル▶https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=38708807

「続立海九相図」▶https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=44942856



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